「大納言殿! 何故頼信に柳也殿の後を追わせたのですか!」
頼信殿が京を旅立って数日後、大納言殿の前には頼光殿が血相を変えて参上しておりました。
「あやつが自ら願い出たのだ。私はその許可を出したに過ぎぬ」
「ならば、その前に何故私に一言お掛けにならなかったのです!」
「兄上共は我が言に耳を貸す気配なく、事は急を要していた。故に貴殿に話す暇などなかった」
「くっ……」
その一言を聞き終えると、頼光殿は軽く礼をし、大納言殿の後を立ち去ろうとしました。
「待て、頼光。もしや貴殿は頼信の後を追おうというのか?」
「弟の腕では柳也殿には敵いませぬ。あのお方と対等以上に戦えるのは私をおいて他にはおりませぬ」
「ふっ、大層な自信だな。然るに、貴殿を行かせる訳にはいかぬ」
「それは何故でありますか!?」
息を荒らしながら質疑する頼光殿とは対照的に、大納言殿はいたって冷静な口調で答えました。
「貴殿は春宮坊であろう。東宮のお側にお仕えするのが貴殿の役目。その貴殿が赤い鬼めの追捕をするのは越権行為に等しきものよ」
春宮坊とは東宮のお側にお仕えし、その回りの事務、令旨などを担当なさる職です。頼光殿は従六位春宮大進の位を授けられ、春宮坊では中の上程度の地位でございました。
「ならば、大納言殿の口で今すぐ私の任を解いて下され!」
我が弟の為ならば官職などには拘らぬ。頼光殿の言葉はそのような気迫を感じさせるものでした。
「ふっ、弟の為にそこまで尽くすか。良かろう、私に構わず向かいたければ向かえば良い。貴殿のことは病に伏し参上出来ぬ状態だと他の者に伝えておこう」
「あり難き幸せ。ではこれにて失礼致します」
こうして頼光殿もまた頼信殿に続き、柳也殿の後を追うのでした。
(頼光……なかなか稀有な男よ。腹違いの弟をあそこまで気にかけるとはな……。実の兄弟でさえ己の敵と成り得るこの時世であるというのに……)
そう嘆く大納言殿の父兼家殿は、実の兄である兼通殿と生涯対立関係にありました。摂関家という朝廷の権力を実質的に掌握している家の者だからこそ、血の繋がりし身内こそが最大の敵となるのでした。
そして摂関家の力を無視出来なくなった皇家もまた、その運命から逃るることは叶わないのでした……。
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巻五「君が代」
「神奈様、お目覚めになられませ」
「く〜」
出立の日の朝、神奈様は未だお目覚めの気配がありませんでした。お眠りに就いて十二刻は経ちましたが、翼人に取りましては一刻弱に過ぎぬ時間。一刻弱では眠り足らず、お目覚め目になられよと仰る方がご無理なのかもしれません。
「神奈様!神奈様!」
「く〜か〜。もう食えぬ……」
私は再三神奈様にお声をかけましたが、一向にお目覚めになる気配がございません。
「かくなる上は……」
サッ、ゴシャ!
これ以上声をおかけになっても徒に刻を過ごすだけだと思った私は、徐に神奈様の枕を抜き出しました。すると鈍い音がし、暫くしますと神奈様はゆったりとお目覚めになられました。
「……」
お目覚めにはなられたものの、神奈様はまだ意識が確かなご様子ではありませんでした。寝具は乱れ、お目はあらぬ方向を向いておりました。
「神奈様、お目覚めになられましたか?」
「うむ……。然るに裏葉よ、もう少し良い起こし方はなかったのか?」
「畏れ多くも、神奈様に再三お声をおかけになられども一向に起きる気配なく、これ以上柳也殿をお待たせになられるのは忍びなく思い、やや強行的な手を用いた所存でございます」
柳也殿をこれ以上お待たせになられるのは忍びない。それが私の本音でございました。
「裏葉の言う通りであるな。では着替えに入るとするかのう」
「はい」
神奈様が完全にお目覚めになられたのを確認し、私は神奈様にいつもの巫女装束をお渡し致しました。これから上京為さられるので、本来ならば外出用のご装束をお渡しになられなければならぬ所ですが、生憎神奈様の外出用のご装束は見当たらず、仕方無しにいつもの巫女装束をお渡しした次第であります。
「時に裏葉よ。お主はこれからどうするつもりなのだ?」
お着替えの途中、神奈様が私に訊ねて参りました。
「はい。神奈様と共に都へ参るつもりでございます」
「そうか。然るに裏葉の処務はこの宮での余の身の回りの世話。別に京まで付き従う義理はないのだぞ?」
「神奈様の仰られることはごもっともなことでございます。されど、都までの間神奈様のお世話を柳也殿に一任する訳にはいきませぬので」
「そうか。済まぬな裏葉」
それは私の建前に過ぎませんでした。本音は折角再会が叶った柳也殿とまた離れ離れになりたくなかったからであります。神奈様の世話を為さる為というのは、その口実に過ぎませんでした。
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神奈様のご出立のご準備が整い、上京に必要な荷物を持ち、私と神奈様は宮の正門で待つ柳也殿の元に向かいました。
「柳也殿、待たせたな」
「ご出立のご準備は整われましたな。本来ならば牛車で京までお送りなさねばならぬ所ですが、宮にあるものと思い、持参致しませんでした」
「牛車か。実際の物は見たことがないが、貴族共が移動の際乗るものか」
都から役人が来る際も神奈様が自ら門まで出向いたことはないというお話でしたので、真に見られたことがないのでしょう。かくいう私も、牛車なるものは一度も目にしたことがありませんが。
「まあ良い。思えば余が宮の外に出るのは、今度が生涯初めて。牛車などに頼らずに自らの足で京に向かうのも悪くはなかろう」
「然り。ではせめてお荷物は我がお持ち致しましょう」
「うむ」
「時に裏葉殿。その身なりだとそなたも京へ参るのか?」
「はい。数日のご出立であるとはいえ、神奈様の身の回りのお世話を為さる人は必要かと思いますので」
柳也殿の問いに私はそう答えました。
貴方と共にいたいから…。そう答えたい気持ちが私にはありました。されど立場上そう答えるわけにはいかず、私は建前の理由しか柳也殿に語ることが叶いませんでした…。
「では出立致そう」
こうして私は暫く世話になった月讀宮を後にし、柳也殿、神奈様と共に京へと出立致しました。
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「うぬぅ。外の世界の風は何とも気持ちの良いものよ」
月讀宮をご出立為さった神奈様の最初の一声は、そのようなものでございました。今日は梅雨の雨も引き空は青空が広がり、風に運ばれし夏草の匂いが辺りに漂っておりました。また、山の奥からは川蝉や不如帰の鳴声が聞こえ、何とも風流な情景を醸し出しておりました。
「時に柳也殿、ここから京まではどれくらいなのだ」
「ふむ、大体元服後の男で三日程度、女の足でも四日あれば着くな」
「四日か。とすれば余の感覚では一日にも満たぬというわけか。それならば大した苦にもならぬな」
ご自分にとっては一日にも満たぬことに神奈様はご気分が優れしご様子です。
柳也殿の詳しい話によれば、伊勢国から北西の方向に伊賀、山城国を経由し京の都へ赴くとのことです。
「ふ、二人とも、そんなに早く歩くでない……」
半刻程過ぎし時、神奈様が半ば悲痛めいたお声をお上げになりました。
「えっ、私はそれ程早い足で歩いておりませんが?」
「いや、これは迂闊だった。よくよく考えれば、常人の十倍の刻の感覚で生きているという事は、それだけ刻の感覚が短いという事。即ち神奈様のお歩きになるお速さは、常人の十分の一ということであろう」
言われてみれば、確かに柳也殿の仰る通りでございます。今まで神奈様と共に遠出した経験はございませんので、歩くお速さの違いを肌で感じる機会はありませんでした。
「まあ、過ぎたるは及ばざるが如し。以後は神奈様の足に合わせて歩くと致そう。
然るに、そうなると京までは一月と十日はかかるということになるな」
「うぬぅ……。一日にも満たぬと思い気が楽になっていたというのに……」
結局の所、常人と同じ刻をかけねばならぬことに、神奈様はご気分が優れないようでした。
「神奈様。一日も満たぬ刻で京に赴きたいならば、我に一つ策がございますが?」
「なんと、策があると申すのか? どんな策なのだ、今すぐ叶う策ならばどのような策でも構わぬ!」
「然り。では……」
スッ……ヒョイ!
「っ!?」
刹那、あろうことか柳也殿は神奈様を背にお背になりました。
その動作に私は思わず絶句してしまいました。柳也殿のお背は私に温もりをお教えになられた大切なお背。そのようなお背に他の女子がお乗りになるなどとは……。
「な、何をするか柳也殿!?」
「我がこうして京まで背負って行けば、神奈様は一日にも満たず京へ赴くことが叶います」
「やめよ、柳也殿! 幼子ではあるまいし、そのような行為余には恥辱に他ならぬ!」
柳也殿の大胆とも取れるご行為に、神奈様は顔を童女の如く真っ赤にし喚き立てました。
「仮に我が京より牛車を持参致せば、神奈様にご苦労をお掛け申すことはなかった。これはそのせめてもの償いである。何より先程神奈様はどのような策でも構わぬと仰られた。ならばこの策でも構わぬであろう?」
「うぬぅ……確かにそのように申しはしたが……。然るにこれは……」
柳也殿のお背に背負われたまま、神奈様は顔を赤めながらもお悩みの表情をお見せになりました。
「畏れ多くも柳也殿。ここは神奈様のご意志を尊重し、お背からお放しになるべきでは?」
「ほう。然るに裏葉殿、我が神奈様を背に背負わねば、そなたは一月と十日かけて京へ赴かなければならぬのだぞ? 敢えて神奈様のお速さに合わせて歩くのは、容易なことではあらぬぞ?」
「それ程のお覚悟は出来ております。何より京へ赴く間は自ずと多くの人々と一期一会を交わすことでございましょう。その間背負われしままでは、神奈様は堪え難い恥辱を受け続けねばならぬのですよ?」
「柳也殿、裏葉の申す通りだ。貴殿の気持ちは嬉しいが、余はそのような恥辱には堪えられぬ」
「そうですか。ならば……」
私と神奈様の説得に応じ、柳也殿は神奈様をお背からお放しになりました。
「うむ。四日の刻をかけねばならぬのも辛いが、背負われし恥辱に比べればまだ堪えられるものであるな。
然るに裏葉よ。先程の言、真に大儀であったぞ」
「いえ……。神奈様のお気持ちを思えばこそでございます……」
いいえ……。神奈様のお気持ちをお思いになりあのようなことを申したのではございません……。あの柳也殿のお背は私だけのもの、例え神奈様といえども柳也殿のお背を渡す訳にはいかぬ……。そう思ったからこそ、私は柳也殿に神奈様をお背からお放しになるよう申し上げたのでございます……。
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「のう、柳也殿に裏葉殿。一体民はどのような暮らしを営んでおるのだ?」
月讀宮出立し五日目の辰三つ刻。ようやく伊賀との国境に差しかかりし頃、神奈様がそのようなことを仰られました。
「民の暮らしをご覧になられたいと仰られるのか?」
「うむ。折角宮の外に出ることが叶ったのだ。この機会に民の暮らしが如何様なものなのかこの目で確かめたいと思ってな」
百数十年にも及ぶ刻宮の外にお出になられたことがない神奈様が、外の世界をお知りになられたいとお思いになられるのは、当然のお気持ちの如く思われます。
「残念ながら、その願いを聞き入れる訳には行きませんな」
「何故だ、柳也殿?」
「ご出立の際申したでしょう。今世は疫病が流行り、多くの人々が疫病を患っている。そのような時村々へ赴き万一神奈様に疫病が伝染すれば一大事。故に京に赴く間なるべく人里を避け山々を歩くと」
そういった柳也殿の気遣いから、今の今まで人里を避けつつ京の都を目指しておりました。その間の食事は予め用意せし乾飯や山菜、川魚などを食し、また、夜は山で野宿の日々が続きました。もっとも、眠りに就いたのは私だけで、十刻しか経っておらぬ神奈様とお眠りにならずともお身体に支障を来たさぬ柳也殿は、私が眠りに就きし間も起きておりました。
「うぬぅ……。然るに、それでも余は民の暮らしを見てみたい。何よりこれから民に威光を与えるというのに、民の実情を知らぬままでは威光を与えることなど叶わぬ!」
「そこまで仰られるのならば致し方あるまい…。多少道は逸れるが、この地より一里程行った所にある村がある。その村でも構わぬというのであればお連れ致しますが?」
「民の暮らしが見られればどこの村でも構わぬ」
「然り。ではこれよりその村へお連れ致しましょう」
こうして私達は多少寄り道をする形である村へ赴くこととなりました。
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「着き申した。ここが件の村でございます」
あれから十刻程経ちし酉三つ刻、柳也殿が語られし村に着きました。その村は辺りを見回しても不思議に疫病に苦しまれている民の姿は見えず、皆々が活き活きと農作業を営んでおりました。
「のう、柳也殿。あの者共は何をしておるのだ?」
「ああ、あれか。あれは田植えだ」
「田植え?」
「苗代で育てし稲の苗を、水田に移し植えることだ」
私などには見慣れし光景なれど、外の光景をご覧になられたことがない神奈様にとっては、田植え一つとっても見慣れぬ新鮮な光景のようでございました。
「やや! 貴方様は!? 皆の者、皆の者〜」
とある村人が柳也殿のお顔を眺めし刹那驚きの声を上げ、村の者共に声をかけました。その声に呼応し、村人達は挙って柳也殿の元に集い出しました。
「おお……貴方様はかの時の…」
「あのお方がまた村を訪れて下さった……」
「ありがたや、ありがたや……」
柳也殿の前に集まりし村の者共は、皆が皆まるで神でも崇め奉るが如く、柳也殿を奉ったのでございました。
「柳也殿、一体この村の者共はどうしたのだ?」
「いや、以前この村に立ち寄りし時、この村の者共に呪いを施したのだ。然るにこの様子だと大概の者は病より解放されしようだな」
恐らく柳也殿は、嘗て私や我が母に行いしことと同等のことを為さったのでしょう。柳也殿は呪いと仰りますが、それは最早祈祷の域を超えし神なるお力なのでしょう。
「良い光景であるな……。余も、余も人々に柳也殿の如く、心の奥底から感謝されてみたいものだ……」
人々に崇め奉られし柳也殿のお姿を見て、神奈様がそうお呟きになられました。初めて民と接触し、その民が本心で柳也殿に感謝する姿が、それほど神奈様のお心に良いご印象を与えたのでしょう。
「さあ皆の集、牛頭天王様を向かい入れる宴の準備を始めるのだ」
村長らしき方が村人達に声をかけ、村人達は一斉に仕事を止め宴の準備を始めました。
「ほう、牛頭天王とはなかなかいったものだな」
牛頭天王とは疫病除けの神の名でして、柳也殿のお姿と行いが牛頭天王を思い起こさせるが如くなので、村人達はそう柳也殿を奉ったのでしょう。
「然るに、そのような持て成しはいらん。気持ちだけ受け取っておく。田植えを始めて間もない時期では食糧もそれ程備蓄しておらぬであろう」
「いえいえ。天王様が我等を助けて下さらねば今年の収穫は無きに等しかったもの。これは我等村人達の総意の気持ちでございます」
「そこまで言うのであれば構わぬ。村人達の総意、謹んでお受け致そう」
こうして柳也殿は、村人達から歓迎を受けることとなったのでした。
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「ささ、お付きの方々もご遠慮なく」
「うむ、済まぬな。然るに踊りというのはこういうものを言うのだな」
村人達による宴は村に蓄えてあった食糧や村人達の踊りや歌によって催されました。宮中生活が続き踊りをご覧になられたことがない神奈様にとっては、村人達の踊りは新鮮なもののご様子です。
「ふむ。神楽や雅楽に比べれば素朴な踊りではあるが、生き生きな踊りであるな。民の踊りは初見であるが悪いものではないな」
どうやら柳也殿も民の踊りをご覧になられたことがないご様子です。私などは毎年行われる村の祭とそう大差のない踊りという感じで、それ程の新鮮さは感じません。寧ろ民の踊りが初見であるというお二人の反応の方が私にとっては新鮮でございました。
『我が齢〜君が八千代に〜とりそへて〜とどめおきてば〜思ひいでにせよ〜』
踊りも終盤に差しかかりし頃、村人達から歌と歌う声が聞こえて参りました。
「この歌は知っておるぞ。『古今和歌集』巻第七、題知らず、読人知らずの賀歌であろう」
『古今和歌集』なる書は名前くらいしか知りませぬが、村人達が歌っている歌は私の村でも長寿を祝う歌としてよく歌われておりました。恐らく、村人達が病から解放されし喜びを長寿の形で祝い歌っているのでしょう。
『君が代は〜千代に八千代に〜細石の〜巌と成りて〜苔の生すまで〜』
「ん? この歌は余が知っている歌とは初句が異なるな。確か『古今和歌集』では『我が君は』が初句であったはず」
「君が代」で始まる歌が歌われ出した時、神奈様がそのようなことを仰られました。私の村でも同じ初句から始まる歌が歌われており、神奈様の話によりますと、どうやら『古今和歌集』では初句の形が異なるようでございます。
「『古今和歌集』が編纂されたのは延喜五年、今から九十年以上も昔のことだ。そのような昔から歌われていた歌なのだ。多少句の形が変わっても不思議ではない」
「そういうものなのか。歌は覚えるだけのものではないのだな」
柳也殿の言に、神奈様は半ば納得されたようでした。思えば神奈様に歌をお聞かせになっていた時、神奈様のお口から申し上げられるお言葉は、決まって「覚えておる」でございました。それは書という形で歌と触れ合っていたからでもありましょうが、神奈様は歌というものは単に記憶するだけのものと思っておられたようでした。
されど、こうして村人達が歌う歌姿を見て、歌というものは皆で口ずさむものだとご理解為さったことでしょう。
「然り。歌は句を覚えることも大切ではあるが、その意を理解し歌わねば意味がない」
「歌の意味か。先程の歌の意は『君』に細石が巌となり苔が生すまでの永き時を生きて欲しいという意味なのであろう。然るに『君』とは一体どういう意味を指すのだ?」
神奈様は「君が代」の『君』の意味をご理解為さられていないようで、『君』の意味を柳也殿にお訊ね致しました。
「ふむ。しいて言うならば『大切な君』という所であろう」
「大切な君?」
「己が大切だと思う人という意味で捉えれば良い。誰とて己が大切にする人には長生きして欲しいと願うものであろう」
「己が大切だと思う人か……。余にとっての君は誰に当るのであろうか……?」
楽しげに歌を歌う村人達の姿を見て、神奈様はそう呟きになられました。村人達は皆、それぞれの「大切な君」がいるからこそこうも長寿を願う歌を楽しげに歌えるのでしょう。
余には『大切な君』などおらぬ。神奈様の悲しげな顔はそう仰られているかの如くでした。
「のう裏葉。裏葉には『大切な君』はおるか?」
「私にでございますか? そうですね……亡き母が私にとっての『大切な君』であったかもしれません」
神奈様のご質問に私はそう答えました。父の顔を知らぬ私に取りましては母こそが大切な君であったかもしれません。
「そうか……母が『大切な君』か……。母の顔を知っておる子は皆そうなのであろうか?」
「それは人それぞれでございましょう。ただ、母が子を『大切な君』と思うならば、子もまた母を『大切な君』と思うものでありましょう」
「母が子を『大切な君』と思うならば、子もまた母を『大切な君』と思うものか。
のう、裏葉。余の母君は余を『大切な君』と思ってくれているであろうか?」
ただ嘗て高野にいたということしか知らず、生死すら不明である母に『大切な君』と思われているか。そう神奈様は私に訊ねて参りました。
「母が子を『大切な君』と思うならば、子もまた母を『大切な君』と思うもの。逆もまた然り。神奈様が母君を大切な君と思っているのならば、母君も神奈様を『大切な君』と思っているであろう」
私が口を開く前に、柳也殿がそうお答えになりました。
「そうか、余が思えばか……。何故か柳也殿にそう言われればそのようだと思えてしまうな……」
母が子を「大切な君」と思うならば、子もまた母を「大切な君」と思うもの……。そう仰られるのは柳也殿もまた、己の母を『大切な君』と思っているからなのではないかと思えて仕方ありません。 |
「母君、お待ち下され! まもなく我等の積年の願いが叶いまする!!」
あの晩の柳也殿の台詞が私の頭を過りました。柳也殿が母君と共に抱いている願い。それがどのような願いかは私には分かりかねません。されど、共に願いを抱いているからこそ柳也殿に取っても柳也殿の母君に取っても互いが互いの「大切な君」なのでしょう。
共に同じ願いを抱けるからこそ、その者同士は互いに互いを「大切な君」と思うことが叶う。ならばこの先何が起きようとも、その行為が柳也殿の願いを叶うことに繋がるならば私は喜んで協力致しましょう。そうすることで今の私にとって「大切な君」である柳也殿が、私のことを「大切な君」と思ってくれるでしょうから……。
…巻五完
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※後書き
今回は一ヶ月所か二ヶ月以上も空けてしまいましたね…(苦笑)。原因はモチベーションが低かったりフラッシュ作ってたり単にサボっていただけとかそんな感じです。
さて、今回はストーリーには大きな変化はありませんね。当初の予定通り話が進んでいるという感じです。原作ですと追う追われるみたいに緊迫な展開だったりするのですが、この作品にはあまりそう行った所がないという。まあ、裏では色々と動きがあったりするのですがね。
ちなみに「君が代」ネタは以前からやろうと思っていました。「Kanon傳」でも「君が代」はネタにしたことがありますけど、今回はその原点に当ってみたという。
作中でも説明した通り、「君が代」の原点は「我が君」で始まる『古今和歌集』の歌なのですが、恐らく九世紀後半から十世紀前半にかけて成立した、というか何処かの誰かが歌い出しそれが広まったのだと思います。
最近では法律で日本国の国家として認められまして、「軍国主義の復活だ」みたいな目で「君が代」を見つめる人がいますけど、原点を当れば何の変哲もない素朴に長寿を祝う歌なのですよね。焦点になる「君」も天皇だけを指すという訳ではなく、自分の大切な人と言いますか「大切な君」という意味になろうかと思います。それが戦前のイメージで本来のイメージから逸脱したイメージで見られるようになったものだと思います。
「君が代」を歌うことによって殊更に国家を強調するのでもなく、またそれを批難するのでもなく、「長寿の祝い」という本来の歌の意味で見られないものでしょうかね?
話が大分逸れてしまいましたが、こういう蘊蓄ネタが入るのは、前回も申しましたが、日常的な描写が出来ないからそれの埋め合せで入れてるようなものですね。本当はこういうネタに頼らずに話が書ければ良いのでしょうが、こういう書き方が自分の個性でそれをやらないと何の見栄えもない文になるのではないかとも思っております。まあ、「Kanon傳」あたりはストーリーと全く関係のない所でそういった蘊蓄ネタや政治的なネタが展開されていましたので、そういうネタを絡めるとしてもストーリーの流れに自然に組み込めれるよう精進していきたい次第ですね。
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巻六へ
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